新たなる旅立ち
そろそろまた春が来る。
第3期指輪戦争が終わって、第4期が来た。
ミドルアースに残るエルフたちの誰もが鴎の鳴き声を聞くたびに募る海への憧れとミドルアースでの黄昏の時を感じて、その多くが海を渡った。
それでもレゴラスは、最後まで此処に残ることを決めた。彼の愛した定命の子らの命はまだ、中つ国の大地に燃えていた。
遠くの海はそっと呼びかける。静かにたゆたう潮騒となって。
でもまだ―いかないよ。
彼は愛する定命の者への愛情から、ミドルアースを離れられなかった。愛情故に死の瞬間を見たくはなく、その未練故に傍を離れられない。
相反する二つの思いが悩みと迷いをうみ、彼を苦しめる。
レゴラスはゴンドールの丘の上で花束を抱えて立っていた。英雄だった彼(か)の国の王・エレスサールの為の追悼の鐘の音を聞きながら。 いかにエルフといえども聞こえるはずのない、灰色港の波の音を聴きながら。
まだ胸に残る彼の声の優しさ、瞳のあたたかさ。…最後に彼に会ったのは、いったいいつだったろうか。
哀しみと寂しさに、レゴラスは目を閉じた。風が花を攫い、ミナス・ティリスに届ける。王の愛した大地に両手いっぱいの花を捧げ、ゴンドールを後にする。彼の愛する友に忍び寄る、死の影を消したくて。彼の命の灯を確かめたくて。燦光洞に、向かった。
レゴラスがその地から姿を消した後も、崩御を知らせる鐘は鳴り続け、風は花を舞わせていた。まるで哀しみの為にその生を終えてしまう、エルフの哀しみの代わりのように。
ギムリは燦光洞で待っていた。
その両腕に深すぎる哀しみをもつ、優しすぎる友の為に。
レゴラスはギムリに微笑んだ。死はまだ、彼を捕まえてはいなかった。
「今度は何処へ消えていたんだね?」
すっかり老人のそれと化した髭のしたから、しわがれた声で呼びかける。
「…アラゴルンが眠ってしまった」
鎮魂の鐘は遠く此処まで届いていたのだろうか、少しも驚くことなく、ただ彼は見つめる。
「レゴラス」
かつての指輪がつないだ仲間のうち、フロドとガンダルフは灰色港を旅立ち、サムも行ってしまった。彼らは今、どうしているだろうか。メリーとピピンは眠ってしまった…ボロミアやアラゴルンも同じ。彼らはもう、喋らないし、笑わないし、あたたかみも…ない。最後の一人であるギムリの傍にも、老いは広がっていた。
レゴラスは友の瞳を久しぶりに覗き込んだ。思えばギムリに会ったことすら久しぶりだ。
ずっとイシリアンをローハンを燦光洞を遠ざけていた。老いた彼らを見るのは嫌だった。死が近づくような気がして。けれど彼方で鐘を聞いた。そしてイシリアンでまたひとつ、大切なものを失くした。
最後の一人は傍にいたくて。知らないうちに失くすのはもう嫌で。そして戻った。
前に見たときよりも確実に進んでいる老いを見て、レゴラスは知った。彼から死を遠ざけることなど、できはしないのだと。
今なら、限りある命を選んだアルウェンの気持ちがわかる。そして同時に羨ましい。限りある命を選ぶことの出来るアルウェンが。
「あとは、君だけだ。…寂しいよ」
一人残される寂しさは、確かに生の喜びよりも大きい。
それでも。レゴラスはゆっくりと微笑みの形に筋肉を引きつらせた。ギムリはそれを目を細めてみたあと、口を開いた。
「レゴラス、お前は優しすぎる。人の心配ばかりしとるんだ」
ギムリは昔のように鼻を鳴らして言った。
「それは君も同じだよ」
そうじゃない、と彼は首を振る。
「たまにはわがままくらい言ったらどうだ」
レゴラスは哀しみに瞳を伏せた。笑顔をつくるのはやめたようだった。
「僕の願いは誰にも叶えられないよ。いや…あるいは神と呼ばれる者ならば可能かも知れない」
僕の望みは過去にあるのだから。
そう、レゴラスは続けた。その彼の瞳は指輪を葬る旅―いやもしかしたら彼の故郷が闇の森と名を変える前を見つめているのかも知れなかった。
「海を渡りたくはないのか?」
レゴラスは一瞬言葉を失った。
ずっと、考えまいとしていたことだった。いくら鴎が鳴いても、朝夕の日が水面を眩しく照らしても。潮騒が呼びかけても、風が海へと誘っても。
「君を残しては…」
「行ってやる」
レゴラスは目を見開いて呟いた。
「まさか」
それほど信じられなかった
「行ってやるといっとるんだ。海へ、行きたいのだろう?」
ギムリの言葉に嘘も無理もないのなら、レゴラスの返事は決まっていた。
その日。澄みわたる秋空の下、レゴラスは潮を含んだ空気を胸一杯に吸い込んで、ひときわ高く鳴く鴎を見上げて微笑んだ。
彼は今、海にいる。
あれほど焦がれた海に。
彼は乗り込んだ船のうえで住み慣れ親しんだ中つ国の大地を見つめる。
不思議な気分だった。
大地の上から海を見て、中つ国を離れることを思ったときはとても気分が重かった。離れることなどできなかった。けれど今こうして海の上から大地を思えば、心はとても晴れやかだった。勿論それがある老ドワーフのおかげであることは明らかだった
レゴラスはゆっくりと後ろを振り返った。
「離れがたいか?」
ずっと黙っていたギムリがようやく口を開いた。レゴラスはその問いに首を振って答える。
「ありがとう、ギムリ」
レゴラスの胸は希望に満ち溢れていた。かつて八人の仲間と共に指輪の旅に出たときのように。ただ一人ギムリを残して、もう彼らはいないけれど。
それでも彼らの輝かしい記憶と希望は永遠に生きる。
ギムリは久しぶりに見たレゴラスの希望の表情を笑って見る。
友が幸せなら中つ国を離れることに異存はなかった。
レゴラスがあの穏やかな、けれど内に輝く希望を秘めた声で言った。
「さあ、海を渡ろう」
バレンタインデーなのにこんな話です。
いろいろ挑戦してみたりもしましたが、結局私はシリアスの短編
しか書けないようです。
感想など頂けましたら更新速まるくらいがんばります。
04,2,14 暁夜陽月